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宰我

 

宰予 字/子我

さいよ しが

 

年齢は不明(孔子よりだいたい30ほど若いと思われます。子貢、顔回らと同世代なのでしょう。宰我の年齢についてはいずれ記事を作るつもりでいます)

魯の出身

 

 

 

 宰我はとても賢かったのですが、合理主義が過ぎるせいか少々薄情で、たびたび孔子に叱られています。

 弁舌について評価されているとおり口が上手く、立派なことを言っていたようです。しかしこの箇所ではお昼寝が孔子にバレ、とてつもなく怒られていますし、色々と問題ありな人柄です。

 またどうやら一言多いタイプなようで、自国の君主をからかうような場面もありました。※

 屁理屈も上手ですね。(孔子はきちんと反論しています。良かった…)

 

 

※ 哀公は社の中に植える木について質問しただけでしたが、宰我はそれに答えた上で「周では栗(くり)を使いますが、それは民を戦慄(せんりつ/リツは栗と同じ)させるためですよ」といらんことを言うのです。言葉遊びとしては面白いですが、とても君主への質問に返す言葉ではありません。哀公は十歳そこそこで即位した若い王でしたから、宰我はからかったのでしょうか。当然、孔子はそんな宰我に呆れ返りました。

   とはいえ、君主にお目通りでき質問までされるほどですから、名は知られていたはずですし、やはり実力があったのでしょう。

 

 

 宰我は、斉(せい)の国の臨菑(りんし)という街の大夫となり、田常という人物と共に反乱を起こして、その罪で一族皆殺しにされました。これは哀公14年・孔子72歳の時のことです。孔子はこのことを恥じたといいます。[『史記』仲尼弟子列伝]

画像は肛門十哲さまより許可を頂きお借りしています。

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